初めて歩き遍路、結願までに10年かかった理由


大学4年の夏休み、初めて徳島県を歩いて遍路しました。

灼熱の遍路道で大変なこともありましたが、戻ってきてから心を占めていたのは、山道を一緒に歩いてくれたお遍路さんたちのことでした。

今ごろ、どの辺りを歩いているんだろう

そろそろ周り終えているかな

辛くても、休みながらでいいから一歩進めば前に行ける。

山越え谷越えの遍路旅は、人生に似ているところがあるなと思いながら、徳島での旅を思い返していました。

秋になり、もうすぐ社会に出れば環境がガラッと変わるだろう、そう思うと少し不安がありました。

自分に自信を持てるといいなと思いました。

まるで学生気分を卒業するための儀式のようなつもりで、卒業旅行に遍路旅を選んだのでした。

2度目の遍路は、真冬でした

相変わらず白装束は買えませんでしたが、前もらったアドバイスの通り、今度はジーパンではなくジャージで行きました。

冬だし、今度は日焼けしないはず。

と思っていたのですが。

甘かった。

長袖から出ていた手の甲が一日で茶色になり……お風呂場で気付いて、ショックを受けました。

歩きのお遍路さんもちらほら見かけました。

行き先が一緒だからこそなのですが、歩いていると追い越し追い越されになる男の人がいて、お互い会話するでもなかったのですが。

夕食の時間に宿の食堂で「あれ、お昼にお会いしましたよね」とお互い目を丸くしました。

偶然は3日続きました。

お大師様のお導きなのか。

なんて思ったわけではないのですが、歩く距離もペースも大体同じみたいだしと、一緒に歩くようになっていました。

「リュックの下に括り付けてるの、野宿するときに使うマットでしょ? 使わないの?」

私が、3日も同じ宿になるなんて思っていなかった理由を聞きました。

“トノ”が言うには、野宿をしていたけど夜の寒さに耐えられず、自販機で暖をとり、それから身の危険を感じて宿を取るようになったそうでした。

彼はその上、肝心な目印があまり載っていないような地図を持っていました。

(スマホがまだない時代、地図が命綱なのに)

「よくここまで来たね……」

まぁ私も大概アバウトなのですが、そんな自分を棚に上げて、思わず生意気なことを言ったのでした。

よくここまで来たね。

そんなことを思った人ともう一人出会いました。

”ハナちゃん”という小柄な女の子でした。

私と同い年くらいに見えるのに、背には巨大なリュックをからっていました。

野宿しながら歩いてるんだ、と。

あれ、いつの間にかいない、思うと翌日。

「昨日は通夜堂に泊まったんだけど、夜、風がビュービューで怖かった」

あっけらかんと言ってのける笑顔が、とても眩しかったです。

「見るからに重い荷物なのに、「重い」とかって一言も聞かないよね」

キツそうな顔も見せず、飄々と歩くハナちゃんの後ろ姿に、トノが呟いていました。

親や兄弟以外で、こんなにも毎日長い時間一緒にいる人は初めてでした。

名前は交わしたけれど、どこで何をしてるのかは、お互い聞きませんでした。

卒業や引っ越しで環境が変わると、それまで毎日のように会っていた人と何年も会わなくなるように、旅が終わればそうそう会うことがないことを、お互い分かっていたようでした。

たまたま出会った縁で、他愛のない話をしながら、同じ遍路道を歩き続ける不思議な関係もまた、人生の縮図に似ていました。

順調な旅はそう続かず……

夏の時のように、山で怪しい人に会うことはなかったけれど、順調なことばかりではありませんでした。

10日ほど経ったころ、延々と続く車道以外何もない道で、気分が悪くなったからです。

思い当たる節なんてなく、歩き続けていたのですが、少しずつ悪化していきました。

いつもと同じペースで歩けそうにもなく、自分一人だったら好きに休憩をすればいいのだけれど、一人ではありません。

迷惑をかけてしまうという焦りで、隣を歩いていたトノに

「休んで歩くから、先に行ってて。あとから追いつくから」

とお願いしたけど

「それはダメ」と聞き入れてもらえず。

まだお昼前、次の宿までかなり距離があります。

当然、先に行ってくれると思ったから、ダメだと言われてしまったことが驚きで。

何度お願いしてもトノの答えが変わらないことに、申し訳なくて仕方がなくて、そうか、私は一人じゃないんだなと知りました。

気分は悪くなるばかりで、そんな私に合わせて一緒に足を止めてくれるトノ。

もうダメだと最後、タクシーを呼んで宿に向かいました。

途中、薬局で薬も買ったけれど、宿の人に事情を話すと病院に連れて行ってくれました。

そこで初めて、点滴を受けました。

本当にこんなに体に入るんだろうか、と思っていた点滴パックが萎みきったころ、幸いにも回復していました。

宿の方が迎えにきてくれて、歩いて宿まで来ていたトノと再会しました。

「タクシーに乗ってすぐ横になったでしょ。そこまで体調悪かったんだって心配した」

宿の方にもだいぶ心配をかけました。

無事に体調も回復し、これで終わり……ではありませんでした

疲労が溜まっていると病院で言われたため、1日休みを挟んで、歩き遍路を再開しました。

山の遍路道を、車道と歩き遍路しか通れない道とを交互に歩いていました。

体調も無事回復したことに、健康であることのありがたさを改めて思いながら歩いていた時のことでした。

ソレを見つけたのは、ハナちゃんでした。

「あそこに車が止まってるね」

周りに何も無い山の中の車道。ハナちゃんが指差す方を見ると、確かに車が止まっていているのが見えました。

……見たことがある車な気がして、車のナンバーに目が吸い寄せられます。

実家の……車……!?

今いる町の名前しか教えていなかったのに、驚きを通り越してビビった私。

本当に両親が車から降りてきたことでさらに仰天し、そこから何を話したか記憶にありません。

後から父に聞くと「私がそこにいるだろうと、カンだった」そうです。

親の勘、恐るべし。

ハナちゃんは少し車に乗りたそうにしていましたが、あのタクシーの時以外、ずっと歩いてここまで来たのだからと結局、歩き続けることを選びました。

結願に10年かかった理由

一人で歩くつもりで、きっと一人でのままも楽しかったと思います。

今回も誰かと一緒に旅することになって、むしろ心配を掛けました。

心配をかけてやっと、誰かとの絆のようなものを思い知らされるくらい、未熟な自分が見えました。

途中で帰ることになったのは、大学の卒業式に出るためでした。

その時の私は、結願までに10年かかるなんて思ってもいませんでした。

また時間を見つけたらすぐに最後まで巡ろうと決めていました。

旅から1ヶ月が経ち、大学の卒業式も会社の入社式も終わって働き始めて早々、発覚しました。

腰のヘルニアでした。

MRIを元に、先生の診断を聞きながら、そういえば旅の最中から腰が痛いと思っていたことを思い出していました。

歩いているだけでヘルニアになるの?

と信じられなかったけれど、タイミング的にそこしか思い当たりませんでした。

歩いているときは筋肉痛かな、くらいにしか思っていなくて、あまり気にしていなかったのですが。

即入院ですと言われ、一月ほど入院しました。

病院では安静にしていたというだけで治ったわけではなく、数年、腰に不調を抱えることになり、歩き遍路どころではなくなってしまっていました。

喉元過ぎれば熱さを忘れる、のでしょうか。

数年かけて少しずつ、日常の生活が戻りはじめ、さらに遍路の残りにチャレンジしてみてもいいかな、と思えた時には10年が過ぎていました。

お大師様のお導きなのか、最後は一人で歩き通しました。

そしてこの文章を書いている今も、仕事の休みを見つけては四国へ行き、3周目の結願目前まで歩けています。

ヘルニアになり、身体に興味を持ったことで勉強し、整骨院で働きながら自分の身体との向き合い方をさらに学びました。

四国で歩き遍路をしていると、毎回とまではないですが、体を壊してしまう人も見かけます。

私もヘルニアは治っていないので、全然人ごとではないです。

人によっていろんな楽しさが見つかるのが、四国遍路の魅力だと思うので、いい旅ができる人が増えるよう、今後、四国を歩きながら知ったことを発信していきます。

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